委は女が禾 (か) をかぶって田んぼで舞う形を示す会意文字。禾は稲魂 (いなだま) を模したかぶりもの。舞うときは姿勢が低くしなやかであることから、委の意味はそれを連想させるものとなった。倭は委を声符とする形声文字。低くしなやかなさまを表現し、訓読みのひとつに「したがう」がある。
今の字体からは想像しにくいが、男が禾をかぶって田んぼで舞う姿を表す文字は年である。男と女が田んぼで舞うのは、そのまぐわいを模して見せて、稲魂を刺激し、米の豊作を促すためであったと考えられている。
中国の古書で我が国の古名は倭と表現されている。古くは『漢書』にその用例があり、樂浪海中の倭人には百余国あり (樂浪海中有倭人 分爲百餘國)、などいった内容の記載がある。
魏は、魏呉蜀三国の軍記物の『三国志』で曹操の国として知られているが、三世紀末に西晋の陳寿がまとめた魏呉蜀三国の歴史書『三国志』に、魏と倭のつながりを記した魏書東夷伝倭人条 (= 魏志倭人伝) と題されたチャプターがある。それによると倭国には、邪馬台国を中心として百余国あった。邪馬台国の世帯数は七万余戸で最大であった。そのほか、それぞれの国の官位や生業のことが書いてある。水行何日だとか、陸行何日、方位がどうの、距離が何里かなど、それぞれの国の位置関係が書いてあるが、現代の地図に対応させることは難しい。(邪馬台国は邪馬壹国と記されていた。壹は壱の原字であり、邪馬壹は「やまい」と読む。因みに、台の原字は臺である。)
中国の歴史書は大方、前の王朝のことを書いたものであった。今のように、文書や人づての話ばかりではなく、写真・動画・音声・地図などの情報が集まり、移動が容易い時代であっても、平成の日本にいて、文化大革命が起きた頃の中国のことを正確に記述することは難しい。だから、晋の歴史家が一昔前の、まして、自分がいったこともない東の海の向こうの島々のことを正確に記すことはほとんど不可能なことであった。しかし、情報が他にないとなれば、それは大事な資料である。
以上のことから、邪馬台国は未だに場所が不明で、その勢力図の正確なところもわかっていない。分かっているのは、卑弥呼と呼ばれる女王が統治していたこと、卑弥呼には夫がなく生涯独身であったこと、政治は鬼道と呼ばれる謎の呪術的儀式に則って行われていたこと、人前には姿を見せたなかったこと、実権を握っていた (か、あるいは、補佐していた) のは弟であったこと、南方にあった男性統治者のいる狗奴国 (くなこく) と対立し紛争もあったこと、死んだあとは大きな塚を作り、百人あまりの奴婢 (ぬひ) を殉葬したこと、等々である。倭国は卑弥呼が女王になる前にも混乱があったが、死んだ直後も混乱となった。臺與 (とよ / あるいは、壹與 = いよ) と呼ばれる新しい女王が即位して混乱は収束した。
邪馬台の台の字 (臺) は「と」とも読むのは興味深い。邪馬台国が今の奈良県に出現する大和 (後述) と同じ国かもしれないからだ。
しかし、女性がリーダーでないと混乱するという社会であるから、神道の天皇制とはやはり異質なのだろう。卑弥呼は人間社会では独身であったが、何かの宗教の神様とは結婚していたのかもしれない。その宗教が神道や外来のものに消化吸収されてなくなってしまったとなると、邪馬台国の真の姿は永遠に再現できないだろう。
弥生時代から飛鳥時代になると、やまとは奈良に出現した。この国は間違いなく我々の知る天皇家を頂点とした国家である。国号「日本」は七世紀後半、つまり、朝鮮半島で起きた白村江の戦いとそれに続く日本列島内の内戦である壬申の乱のときのいずれかの時期に生み出されたものだろう。ただ、日本という呼称ができても、やまとは廃れなかった。
八世紀初頭、女帝元明天皇の時代、倭は和と書き改められ、大の字を付加して、大和で「やまと」と読むようになった。倭の字では中国に侮辱されていると感じる人々もいたのかもしれない。
それにしても、卑弥呼が現代まで続く皇統と血縁関係があるのかないのかについては、大いに気になるところではあるが、時の波がすべてを洗い流してしまっている。
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