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Tuesday, February 05, 2013

地図にない街

 人生に絶望しきって、辞令や空っぽの蟇口など、ポケットの中身を池に投げ込んだ寺内氏はホームレスらしき老人に出会う。老人はなんでもくれたし、都会で生きる術も教えてくれた。バナナ、煙草、風呂、寝床、着るもの、お金、食事、床屋・・・ 最後に老人から頂戴したものは、板塀ばかしがうねうねとつづく通りの袋小路の板塀の向こうに住む女性であった。寺内氏はその女性と懇ろに過ごした。

 これが橋本五郎の短編小説『地図にない街』のストーリーの真ん中部分である。この部分だけとれば、シェヘラザードが喜んで千夜一夜に組み込みそうなファンタジックなハッピーエンドの物語なのだが、『地図にない街』には頭と尻尾がついている。

 寺内氏がすでに亡くなっていることは冒頭で語られる。そして、小説のおしまいには、その自殺の真相が語られる。作者は、一人の若者を手玉にとって望みのものを得た老人の心象風景については語っていない。

 『地図にない街』は、光が当たるところがあれば、影もできるといったことを示している作品だと感じる。

Friday, November 23, 2012

猿語の研究

『ことばの誕生 行動学から見た言語起源論』 (正高信男著、1991年) は猿語と喃語の研究書である。リスザルやニホンザルの研究からはじまって、後半では、ヒトの一歳未満の赤ちゃんの声の意味を探っている。

 リスザルの警戒音はリスザル語の研究であると同時に、利他性の研究とも位置づけられている。捕食動物が出現した際、なぜ、自分だけ黙って逃げず、同じ種の血縁外の仲間にも伝えるのか? 結論はまだ出ていないようだが、将来の返礼を期待して恩を売っておくためではないかといった解説があった。相互的利他主義論というそうだが、言語学が人文系の学問と切っても切りはなせないのは人間語も猿語も同じなのだ。

 いちばん興味深かったのは、テキサスのニホンザルのラブコールが嵐山のニホンザルにはそう聞こえず、警戒するというところであった。猿も地理的な隔たりがあると、言葉が通じなくなってしまうのだという。

 録音・再生機材の性能に関しては記載されていないが、どうなんだろうかと思う。生物学的に見てヒトの聴覚とほかの霊長類の聴覚との差はないのだろうか。良質のスピーカーはどうかわからないが、普通一般のスピーカーでは、ヒトは生の声とスピーカーから流れてきた声を聞き分けられる。ヒトの男の場合、当然、スピーカーから聞こえて来るどこか遠くの見知らぬ女性の誘惑には心を動かさない。刺激されることはあっても、生で誘惑されるのとはまったく次元が異なる。

 読みながらメモっておいたのは、テキサスにはガラガラヘビがいるので、テキサスニホンザルにはガラガラヘビを発見したときの警戒音がある、といったことである。ガラガラヘビに噛まれて亡くなった犠牲者が出たことがあるので、その固有の警戒音が生まれたのだという。場所が異なると言葉が異なってくるのは、交流がないのみならず、それぞれの地域の事象の違いにもよるということであろう。

 この本によると、カルフォルニア工科大学の小西正一氏が鳥類の方言の研究をされたことがあり、防音室で単独で育てたミヤマシトドは自分の生まれ故郷の歌を歌えなくなることを突き止めている。また、よその地域のミヤマシトドのさえずりを聞かせていると、その歌を歌うようになる。実験結果から、ミヤマシトドには方言があり、経験的に歌を覚えていくということが示されている。

 猿に同様の実験を行うことはできないという。猿を一頭だけにして隔離すると、発狂に至り、自然な音声データがとれなくなってしまうからだという。しかし、ニホンザルにアカゲザルの子を、アカゲザルにニホンザルの子を預けて育てさせるといった交換実験は行われている。アカゲザルのある母親はニホンザルの養子を拒絶したそうだが、受け入れた方からデータはとっている。結果は、ニホンザルに育てられたアカゲザルはニホンザル語のフードコール (餌を持った飼育係を認めると発する声で、一頭が発すると同種族は合唱する) を獲得し、アカゲザルに育てられたニホンザルはアカゲザル語のフードコールを獲得したというものであった。つまり、誰から生まれたかではなく、誰に育てられたかで、使う言葉 (方言?) が決まったのである。逆から言うと、ニホンザルに育てられたアカゲザルは、アカゲザルからは同族とは見なされず、アカゲザルに育てられたニホンザルはニホンザル族とはみなされなくなってしまっているということである。

 猿語の研究のあとは、ヒトの赤ちゃんの発声の研究や論考が続く。公共言語を操るという点において、ヒトが特別な存在なのか、霊長類の仲間にすぎないのかといったことが正高信男氏の最大の関心事であった。ヒトの言葉の誕生に、「系統的にみて飛躍的な発展はなかった」と結論付けられている。

 文法や語彙以前の言語学の研究書として、『ことばの誕生』は貴重な資料である。


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Wednesday, September 05, 2012

世界の名著

『死ぬまでに読んでおきたい 世界の名著』 (洋泉社) は、いわゆる古典文学の案内書である。ただ、「世界」とは銘打っていても、要は、西洋物をいう。二十作のあらすじが手っ取り早くわかるので、忙しい現代人には向いているかもしれない。この本が選んだ二十傑は以下のとおりである。

『白鯨』

『グレート・ギャッツビー』

『風と共に去りぬ』

『誰がために鐘は鳴る』

『初恋』(トゥルゲーネフ)

『戦争と平和』

『罪と罰』

『カラマーゾフの兄弟』

『ハムレット』

『嵐が丘』

『一九八四年』

『若きウェルテルの悩み』

『ツァラトストラはこう言った』

『赤と黒』

『三銃士』

『レ・ミゼラブル』

『失われた時を求めて』

『異邦人』

『神曲』

『ドン・キホーテ』

この中で熱心に読んだことがあるのは、ヘミングウェイのミッション・インポッシブル『誰がために鐘は鳴る』、善悪なんぞ物の見方でどうとでもなるといいつつ、なかなか思うように行動できない悩み多きデンマークの王子の物語『ハムレット』、ヒースクリフがアーンショウ家とリントン家に復讐する『嵐が丘』、ダルタニアンが三銃士とともに悪の枢機卿と対決する『三銃士』、ジャン・ヴァルジャンとコゼットとマリウスの数奇な運命と十九世紀のフランスの姿を描いた『レ・ミゼラブル』、そして、憂い顔の騎士とその従者サンチョ・パンサの冒険談『ドン・キホーテ』である。

『若きウェルテルの悩み』は、読んだことはあるはずだが、印象は薄い。

『失われた時を求めて』は長すぎて、拾い読みしかしていない。

『風と共に去りぬ』の出て来るスカーレット・オハラのいい人アシュレー (アシュレーはメラニーと結婚している) は、戦後、腑抜けになってしまう時期があり、勝者の北の政府に税金をおさめないとスカーレットが農場を失ってしまうというのに、口にするのは文明の崩壊だとか、神々の黄昏といったことばかりで、実務に役に立つことをスカーレットにしてくれない。それはどことなく病弱なせいで焦燥感を募らせながら執筆していたであろうニヒリストのニーチェと重なる。「神は死んだ」だとか、「永劫回帰」のことがニーチェの書には書いてあるが、だからいったいなんなんですかといいたくなる。ニーチェが無意味だとは思わないが、でも男というのはせいぜいそんなもので、いざとなったら女の方が強いのだろう。ただ、ヒースクリフはかわいそうな境涯ながら、図太く逞しく生きる。

こうしてみると、ロシアものはほとんど知らないことに気付く。ラスコーリニコフの性格や行いは少しは知っているが、通して読んだことはない。

ちなみに村上春樹文学に影響を与えたのは、上記の書物では、『グレート・ギャッツビー』と『一九八四年』であるという。

サマセット・モームは『嵐が丘』を世界十大小説に数えている。

ヘルマン・ヘッセは誰にとっても必ず読んでおかなければならない書物など存在しないと言っていた。

===
→Cat is honest (by Hemingway)

ヘミングウェイとカミュはノーベル文学賞受賞者
(ノーベル賞関連投稿)
→iPS細胞
→The Smaller, The Better



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映画




















Saturday, June 30, 2012

江戸っ子気質

『粋に暮らす言葉』(杉浦日向子著) は、著者の生前の著作から名言を集めた本で、江戸に暮らした粋な人たちの気質を紹介している。

この本の通りなら、江戸っ子はおおらかで、楽天的で、ユーモラスで、どこか刹那的である。構成は、見出しと一文のセットで、一頁を成している。

学術的な研究ではないが、手軽に読めて楽しめる。


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Saturday, June 16, 2012

狐仙

『聊斎志異』にある『王成』は、ギャンブルが主題というわけではなく、脇役にすぎないものだが、なかなか面白い話である。

かつては裕福であったが、今は落ちぶれてしまった家のあるじである王成が、あるとき簪を拾う。持ち主は老婆で、亡き王成の祖父の連れ合いであった。老婆は狐仙であった。聞くところによると、百年前に王成の祖父と恋仲になったが、祖父が亡くなったあと、身を隠したとのことであった。狐仙は王成の家の貧しさを見て、嘆き、商売の元手にと金をくれた。

王成は葛布を買って都に商いに出たが、王成が都に着く前に値が急騰し、やっと到着して商いをしようとしたときには、値は暴落してしまっていた。宿の主人は葛布を売り払って、新たな商売をしてはどうかとアドバイスした。王成は落胆しながらもその通りにした。ところがその金は寝ている間に何者かに盗られてしまう。

誰かか役所に訴えて宿の主人に弁償してもらうようにすすめるが、王成は運命だと諦める。宿の主人はそのさまを忍びなく思って、いくらの金を貸してやる。

鶉の闘いを目撃すると、挽回のチャンスと心躍り、王成は鶉を買い込んだ。ところが、日に日に鶉がどんどん死んでいく。毎日毎日死んでいくから、真綿で首を絞められるような思いであった。しまいにはとうとう一羽だけとなってしまう。

こいつはすごい鶉に違いない、ほかのを皆殺しにしたんだから、と宿の主人は慰める。宿の主人は親切な人で、いろいろとアドバイスしたり、宿賃や食事代をいくらでも待っていてくれる人であった。

この鶉は本当に強かった。連戦連勝で勝ち続けた。暮らしが立つようになった頃、丁度、上元節に鶉好きの親王が鶉飼いをしている庶民を招いて、宮殿の中で闘わせるのである。

宿の主人は大もうけのチャンスだといったが、王成には不安もあった。

結果だけ書けば、王成の鶉は親王のどの鶉よりも強く、親王が王成の鶉を欲しがり、値段の交渉の末、大金を手に入れ、ハッピーエンドとなる。

これは間接的ながら、狐が人に富をもたらす話である。狐が出て来る民話は日本にも沢山あるだろう。西洋のイソップ物語では、狐はずる賢いやつであったり、どこか間抜けなやつであったりする。

→首を取り換える中国の怪談  (『聊斎志異』)

Wednesday, May 23, 2012

バスクの始祖

バスク人について坂口安吾の短編小説『風博士』には面白いことが書いてあった。短い小説は集中力が途切れない分、読者にはありがたいものである。

この小説に出てくる風博士と蛸博士は犬猿の間柄であり、壮絶な確執の闘争を繰り広げてきたらしい。風博士の遺書によると、「四十八年以前より禿げてゐた」蛸博士は「余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てた」ことのある非道な人物である。この蛸博士が風博士の学説を一笑に付したことが風博士の自殺の原因である。学説を否定されたぐらいの、はたから見るとどうでもいいささいなことで死んでしまうのは、人間の悲しい性である。

風博士の言い分はこうである。
諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであらうか? 仏蘭西、西班牙 (スペイン) 両国の国境をなすピレネエ山脈を、やや仏蘭西に降る時、諸君は小部落バスクに逢着するのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人種に隔絶し、実に地球の半廻転を試みてのち、極東じやぽん国にいたつて初めて著しき類似を見出すのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与へたのである。見給へ、源義経は成吉思可汗 (ジンギスカン) となつたのである。成吉思可汗は欧洲を侵略し、西班牙に至つてその消息を失ふたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖を卜したのである。之即ちバスク開闢の歴史である。しかるに嗚乎、かの無礼なる蛸博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論を説 (とな) へたのである。彼は曰く、蒙古の欧洲侵略は成吉思可汗の後継者太宗の事蹟にかかり、成吉思可汗の死後十年の後に当る、と。実に何たる愚論浅識であらうか。失はれたる歴史に於て、単なる十年が何である乎! 実にこれ歴史の幽玄を冒涜するも甚しいではないか。
それにしてもこの小説に記されているのは、人間のおそるべき怨念である。文体が滑稽な分だけ余計不気味さを醸し出している。「憎むべき」蛸博士は、インフルエンザにかかってしまうのだ。今でもお年寄りなど体の弱っている人はインフルエンザで亡くなってしまうが、坂口安吾の時代は今以上にもっと恐ろしい病気だったに違いない。
青空文庫

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Thursday, April 19, 2012

芥川の一服の夢

芥川龍之介の作品には、煙草のせいか、お酒のせいか、何がしかの精神安定剤のせいか、本を読みすぎているせいか、判然とはしないが、幻想的なものが多いように感じる。『河童』は河童の国を訪ねる一種ガリバー的な物語だし、『蜘蛛の糸』は天国から地獄に蜘蛛の糸を垂らす話だし、『杜子春』は仙人が出てくる話で、漱石が絶賛したという『鼻』はリアリティーのない長い鼻をコンプレックスにしている僧の話である。また、未完ながらも『リチヤアド・バアトン訳「一千一夜物語」に就いて』なるエッセーも書いている。

幻想を好むのは小泉八雲やホルヘ・ルイス・ボルヘスも同じであった。また、中国には一炊之夢の逸話があったと思う。芥川の『魔術』は一炊之夢的モチーフでできた物語である。但し、飯を炊く間の夢ではなく、葉巻を吸っている間の夢だが。

『魔術』が千夜一夜にインスパイアされた物語であることも想像できる。魔術の使い手であるミスラ君は言う。
「ジンなどという精霊があると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話の時代のこととでも言いましょうか。・・・」
『魔術』において人間の欲なるものは単純に扱われている。富や財への欲望である。しかし、文豪に尋ねてみたいのは、スキルを得たいだとか特別な存在になりたいというのも欲であり、もし欲あるならば、魔術は教われないというのであれば、魔術を身に付けたいと思うことが欲なのだから、決して魔術は教えてもらない、ということになるではないか、ということである。

さて、作家は何と答えるか?

いろいろと論難すると、短編を長編に作り変えて答を提示してくれたかもしれない。


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Sunday, April 01, 2012

薄命の女流作家

水野仙子の『嘘をつく日』は印象的な短編小説である。小説の舞台が病院であるから、療養中の作品だろう。

作家と同様に主人公も病院で療養している。作家が病を患ったのは二十八歳であったから、主人公もそのくらいの年齢だろう。古顔となったが、胸の痛みはやわらぎ快方に向かっている。春めいてきて気分が明るくなったことも手伝ってか、四月一日は嘘をついても良い日だからといたずらを計画する。平成の基準からすると、主人公の女性は年齢の割には純粋で無邪気だと感じる。時代がそうさせるのか、芸術家の生来のピュアさなのかはわからない。ただ、芸術家にはピーター・パン的要素が大なり小なりあるものだ。もっとも欧米では、こどもばかりでなく、大人も四月莫迦を楽しむもので、マスメディアはありもしないでたらめなニュースを流す風習があり、生活に潤いを与えている。

さて、嘘をつくという計画を立てることは病身の主人公にとってささやかな慰めであった。彼女は看護婦を一人かつぐ。それがうまくいったことに気分を良くし、次のカモを求めて診察室に行くのだが、そこには急患の赤ん坊が運び込まれていて、人工呼吸が行われ、医師の蘇生処置もむなしく、赤ん坊は亡くなってしまう。その一部始終を目の当たりにした主人公は、他愛もないけれども、それでいてどこか毒気のある、嘘をついて人をかつぐという計画を抱いた自分を悔いる。もちろん計画は実行しない。「人の死の絶對な靜肅さ」に圧倒されて、「四月一日、私は以後この日のあそびを永久に葬らう!」と誓う。葬らずにすむようにする自分に課した条件は、妹から託された赤ん坊を亡くしてがっかりしている大工のおじさんを、いわゆるホワイトライで慰めることができるならば、だが、それはできずに小説は終わる。

水野仙子がこの小説を世に出したのは大正七年、亡くなったのは翌一九一九年 (大正八) 年である。小説の結末の厳粛さからすると、自分の死期が近いことをうすうす感づいていたのかもしれない。

青空文庫『嘘をつく日』

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Thursday, March 15, 2012

旅を住処とした女


旅を住処とした女 (ひと)

林芙美子は旅を住処とした人であった。代表作『放浪記』ばかりではなく、魅力的な文は数多くあるが、旅や旅を連想させる作品は多い。また、命についてもスリリングに扱う人であったと思う。

摩周湖へ旅行したのは、樺太からの帰りであった。『摩周湖紀行』には次のような文がある。
硫黄山には樹木が一本もなかつた。それなのに、中腹の柵の中には保安林と書いてあつた。どつとんどつとんまるで動いてゐるモーターの上を歩いてゐるやうなすさまじい活火山で、登りながら、硫氣を噴出してゐる氣孔の上へ石を投げると、面白い程その石がミヂンに碎け散るのであつた。銀製の指輪が眞黒になつた。山肌は白と黄とエメラルドグリンの苔で、何だか菓子でつくつた山へ登るやうであつた。山裾には硫黄の工場があつた。明治十九年頃、安田一家がこゝに硫黄採取事業を經營して、標茶 (しべちゃ) の驛まで運搬したものだと云ふことだ。 
川湯温泉は、弟子屈 (でしかが) 温泉より一つ向ふの驛で、網走へむかつた方である。部落中にふくいくとしたいそつゝじの花が咲いて、淺い枯れたやうな河床から湯が吹きこぼれてゐた。弟子屈への車中で、この川湯の驛長さんに遇つたのを思ひだしたが、あいにく雨が降り始めた。こゝには土産物を賣る店と自動車屋が二三軒ある。 
黄いろいジヤケツを着た若い運轉手は「これは大雨になりさうですぜ」と、急いでハンドルをきり川湯から弟子屈への暗い森の中の沿道を、四十哩 (マイル) の速度を出して走らせた。 
昨日よりもひどい雷で、雷光が走るとすぐ頭の上にすさまじい雷鳴がした。烏が幾十羽となく吃驚したやうに森の中へ逃げこんでゐる。雨に滴を拂らつて逃げまどふ烏の姿を私は何時までもふりかへつて見た。 
「人の子にとつては、生れないこと、烈しい日の光を見ないことが、萬事にまさつてよいことである。しかしもし生れゝば、出來るだけ早くハイデースの門を過ぎ、厚い大地の衣の下に横はるに若くはない」 
どう云ふ聯想か、私は北の果の森林の中で、しかも耳の破れるやうな雷鳴の中に、ブチアーの中のデスペラアトな一章を思ひ出した。だが、ついに元氣だ。私は常に雜談をして自分を考へない。旅空で瞑想をしてみたところで、所詮は底ぬけに小心者で、粕ばかりで何もない空虚な躯をもてあましてゐるにしかすぎない。
林芙美子はどこか物悲しい自嘲的な影をひきずっている。しかし旅の空は決して曇りや雨ばかりではない。雨もあれば晴れもある、それが人生というものだ。作者はこのあと「生きてゐることは愉しいことだ」と書いている。

→ウィルソンの暦と株式投資


Sunday, March 04, 2012

安吾の『アンゴウ』

坂口安吾の『アンゴウ』は大変おもしろい小説である。片仮名なのには意味がある。

時代は戦後間もない頃で、はじめのうちは神田の古本屋から入手した一冊の本が主人公のように思われるほど、その本の存在感が大きいのだが、それというのも、第一に、そこには暗号が記されている用箋が挟んであったからであり、第二に戦死した友人の蔵書であったらしいからである。その本が実在するものか、それともフィクションなのかはわからないが、太田亮という著者が書いた民俗学的歴史書『日本古代に於ける社会組織の研究』というものであった。この本の具体的な内容については語られない。しかし、この本を復員したあと神田で買った矢島という男の連想は、さもありがちなものであった。何も矢島ばかりが戦争で辛い思いをしたわけではないのだろうが、戦争のせいで寂しくなった家庭生活も重なって、妄想に取り憑かれていく。その結果矢島は、戦死した友人の神尾について思いを巡らすことが多くなる。小説の中ではまるで生きている登場人物のように頻繁に言及される。神尾の家に本のことを知らせようと訪問すると、そこには妄想を膨らませる矢島にとっての忘却されていた過去が蘇ってきて、表面上は冷静さを装い保つが、腹の中は嫉妬で煮えくりかえっていく。矢島による警察の捜査めいた追求は妻にも及ぶ。妻も戦争のせいで大変苦しんでいるのだが、その心情は描かれない。小説は三人称の文体で書かれているが、心理描写は矢島の分しかない。従って妻の心はその台詞から察するしかない。

矢島は古本屋にも足を運んで捜査する。人間の行動にとって何が原動力になるかはわかったものではない。やがて矢島は、戦火をくぐって生き残った数奇な運命の蔵書を更に十冊ほど見つけ出す。それらの本は矢島の妻に対する猜疑心をますます熱く燃え上がらせる。

そんなあるとき、現在の本の持ち主は、親切にも暗号の書いてある紙が何枚か本に挟まっていると連絡してよこす。矢島は暗号を解読できるチャンスと意気込んで、その人の家まで紙を取りに行く。

暗号の解読に成功すると、矢島の気分は一新される。それはこの上もない慰めとなるのである。

こういった小説が示しているのは、自分を苦しめる一番の要因は矮小な自分でしかないということであり、また、肉体が死してもなにがしかの生きた証がのこれば、それは決して魂までもが死んでいなくなったということではない、ということである。


アマゾンにある坂口安吾の本
坂口安吾全集
坂口安吾

Tuesday, January 24, 2012

世界の音 民族の音


『世界の音 民族の音』
江波戸昭 (えばとあきら) 著

世界の音楽や楽器にまつわる文化的背景を記した本。シルクロードを東から西に向かって進みながら、各民族の音楽の紹介をしている。そして、ヨーロッパを終えたあとはアフリカに飛び、マダガスカルを経由して最後はオーストラリアのアボリジニーのドリーミングについて紹介してくれている。近代以降、欧米人によって、サハラ以南もオーストラリアも、それにもちろん、南北アメリカ大陸も一つにつながったが、それ以前はばらばらに発展したことが、音楽の側面からも認識できるのはこの本のお陰である。ユーラシア大陸においては東のはずれの島国の三味線や琵琶から、中国の三絃、インドのシタール、ロシアのバラライカ、アラブのウード、ヨーロッパのギターやリュートの類まで、すべてつながっているようである。ペルシャや中央アジアの聞きなれない名前の弦楽器についてもいろいろと紹介されている。大航海時代以降は、弦楽器は海を越えてチャランゴやウクレレとなり、バンジョーとなる。残念だったのは、中国の二胡や琉球の三線についての言及がないことと、いかんせん紙の本ゆえ音が出ないことである。いろいろな楽器や音楽の紹介があると、聞いてみたくなるのが自然な欲求というものだ。

ユーラシア・シルクロードのセクションで印象に残っているのは、中国の雲南省の農耕民による天地開闢を垣根越しに歌い合う歌垣のことや、タタールの森の精シュラレの歌、カフカスにおけるアルメニアとアゼルバイジャンの音楽事情 (アルメニアは印欧語族でキリスト教の国だが、アゼルバイジャン同様に音楽ではペルシャの影響を受けているという。カフカスの吟遊詩人アーシュクについてはもっと調べてみたいと思う)。そして、ウィーンを包囲したトルコ軍の行進曲がヨーロッパにもたらした影響である。ヨーロッパに先んじてオスマン・トルコのイスラム勢力は、音楽が軍隊の士気を鼓舞することに気づいていたのだろう。トルコのラッパや太鼓の楽団は味方を奮い立たせ、敵に恐怖を与えるものだった。

シルクロードを西の果てまでいったあとは、アフリカの太鼓の紹介がはじまる。アフリカの太鼓はコミュニケーションの手段であり、物語や様々な知識を記録しておく為のツールであったという。おそらく、アフリカではこの太鼓文化が発達したので、文字が発明されなかったのだろう。アフリカの黒人を買った新大陸の白人たちは、アフリカの太鼓の力を怖れて黒人たちから太鼓類を取り上げたというエピソードも紹介されている。また、メモしておきたいことだが、スワヒリ語の ugoma は太鼓のほか、踊り、音楽、祭り、祝い事、儀式などの意味があるという。つまり、日本人が単に「太鼓」というのとは異なったものであるといえる。日本でも太鼓は魂の音などとたとえられ、祭り事にはかかせないものだが、具体的なメッセージ性は少なく、モールス信号のような通信機能も果たさない。また太鼓自体はお祭りの意味にならない。

西アフリカにはグリオと呼ばれる楽士がいる。グリオというのはフランス人が名付けたものという。熱帯雨林地帯にいるのは太鼓グリオであり、サバンナにいるのが語りグリオだという。現代のグリオ音楽は民族の固有性や原初性が薄れ、ポップス化しているという。要するに、欧米人の耳に心地良いように編曲されているのである。金にならなければ、レコーディングもコンサートツアーも成り立たない。

著者が最後に訪れたのはオーストラリアである。アボリジニーにとってのドリーミングとは何かについての解説がある。この本によると、現地人が英語でいうドリーミングとは、現地語でいうalchera (アルチェラ) のことで、先祖に関する記憶や歌を指す。記憶という言葉は使われていないが、独断で解釈するとアルチェラとは、アボリジニーの神話であり、その記憶である。アボリジニーによると、人間はトーテムと呼べる動植物から転化してきたというが、アルチェラはトーテムやそれ以降の重要なエピソードをすべて内含する。また、オーストラリアには弦楽器は伝わらなかったようだ。彼らの楽器は笛と打楽器である。打楽器といってもブーメランとスティックを叩き合わせるだけのシンプルなものらしい。アボリジニーはドリーミングを歌にして歌う。機会があったら、一度聞いてみたいものだ。

リズム中心の音楽は原初的な響きのもので、南北アメリカ、アフリカ、そして、オーストラリアに、有史以前に伝播したものらしい。

もうひとつ記憶にのこりそうな、ディジェリドゥと呼ばれるアボリジニーの笛の発祥伝説が記されているのだが、それについては、是非、この本を手にとって読んでもらいたい。

久々に本の感想を書いたつもりが、感想というよりは紹介のようになってしまった。

アマゾン探検


Thursday, May 19, 2011

絶対製造工場

 カレル・チャぺックの本。着想がおもしろいと思って読みはじめた。チャぺックが汎神論者だったかどうかはわからないが、汎神論に興味をもっていたのだろう。また、この本は第一次大戦後に発表されたものだが、当時は原子力開発に関心が集まっていたのだろうと思う。汎神論と核分裂をヒントに、エネルギー革命をああだこうだと考え合わせているうちに、想像の産物であるカルブラートルが出来上がったのだろう。もちろん、カルブラートルは核分裂を利用してエネルギーを取り出すものではない。物質を完全に分解消滅させてエネルギーを得るのである。しかし、物質は消滅しても、その「霊魂」「絶対」あるいは、「神」と呼ばれるものが残るのである。物質が完全になくなるまで分解されるから、エネルギー効率はきわめて高い。副産物として出てくる絶対と呼ばれるガスはガンマ線や中性子のように壁をすり抜ける。放射線は染色体を壊すが、絶対の副作用はそういった肉体的なものではなく、精神に作用するものである。絶対に触れた人は欲望をなくしてチャリティー好きとなる。チャペックの想像力が生み出した様々な現象に納得するわけではないが、小説は面白い。絶対は神の豊穣性と多産性を発揮して、カルブラートルを動力とする世界各地の工場でありとあらゆるものを生産過剰状態にしていく。過ぎたるは及ばざるがごとしというが、生産過剰が今日の日本のデフレを招いているように、チャペックの世界でも生産物を無価値なものにしていく。チャペックの世界では造幣局もカルブラートルを動力にしているから、貨幣の価値もなくなってしまう。
 このあたりまではよいのだが、物語も後半にさしかかると、賛成しかねる出来事が起こる。絶対が世界中にまき散らされているのに、各民族・各国民の信仰上の対立から、世界中が戦争に突入していくのである。チャペックはファシズムには反対していたが、共産主義にはある程度の共感をもっていたので、「宗教は阿片だ」ということと同様のことを言いたかったのかもしれない。物語はすべての戦争が終結して終わる。
 すぐれた作家の例に漏れず、チャペックは博愛主義的傾向がある人だと思う。宗教を信じる以上に、人が人を信じるようにすれば、世の中は良くなるといっている。

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