旅を住処とした女 (ひと)
林芙美子は旅を住処とした人であった。代表作『放浪記』ばかりではなく、魅力的な文は数多くあるが、旅や旅を連想させる作品は多い。また、命についてもスリリングに扱う人であったと思う。
摩周湖へ旅行したのは、樺太からの帰りであった。『摩周湖紀行』には次のような文がある。
硫黄山には樹木が一本もなかつた。それなのに、中腹の柵の中には保安林と書いてあつた。どつとんどつとんまるで動いてゐるモーターの上を歩いてゐるやうなすさまじい活火山で、登りながら、硫氣を噴出してゐる氣孔の上へ石を投げると、面白い程その石がミヂンに碎け散るのであつた。銀製の指輪が眞黒になつた。山肌は白と黄とエメラルドグリンの苔で、何だか菓子でつくつた山へ登るやうであつた。山裾には硫黄の工場があつた。明治十九年頃、安田一家がこゝに硫黄採取事業を經營して、標茶 (しべちゃ) の驛まで運搬したものだと云ふことだ。
川湯温泉は、弟子屈 (でしかが) 温泉より一つ向ふの驛で、網走へむかつた方である。部落中にふくいくとしたいそつゝじの花が咲いて、淺い枯れたやうな河床から湯が吹きこぼれてゐた。弟子屈への車中で、この川湯の驛長さんに遇つたのを思ひだしたが、あいにく雨が降り始めた。こゝには土産物を賣る店と自動車屋が二三軒ある。
黄いろいジヤケツを着た若い運轉手は「これは大雨になりさうですぜ」と、急いでハンドルをきり川湯から弟子屈への暗い森の中の沿道を、四十哩 (マイル) の速度を出して走らせた。
昨日よりもひどい雷で、雷光が走るとすぐ頭の上にすさまじい雷鳴がした。烏が幾十羽となく吃驚したやうに森の中へ逃げこんでゐる。雨に滴を拂らつて逃げまどふ烏の姿を私は何時までもふりかへつて見た。
「人の子にとつては、生れないこと、烈しい日の光を見ないことが、萬事にまさつてよいことである。しかしもし生れゝば、出來るだけ早くハイデースの門を過ぎ、厚い大地の衣の下に横はるに若くはない」
どう云ふ聯想か、私は北の果の森林の中で、しかも耳の破れるやうな雷鳴の中に、ブチアーの中のデスペラアトな一章を思ひ出した。だが、ついに元氣だ。私は常に雜談をして自分を考へない。旅空で瞑想をしてみたところで、所詮は底ぬけに小心者で、粕ばかりで何もない空虚な躯をもてあましてゐるにしかすぎない。林芙美子はどこか物悲しい自嘲的な影をひきずっている。しかし旅の空は決して曇りや雨ばかりではない。雨もあれば晴れもある、それが人生というものだ。作者はこのあと「生きてゐることは愉しいことだ」と書いている。
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林芙美子
現代日本紀行文学全集
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