ところでホメロスは、個人ではなく、二大叙事詩の作者・語り手としては複数であった可能性が高いから、紀元前八世紀よりも古くから、「ホメロスたち」はいたと考えた方が妥当だろう。二大叙事詩の完成には紀元前十六世紀から紀元前八世紀までの八百年間を費やしたという説もある。口承で伝えられながら、各地の方言や伝説を交え、肉付けされ、洗練され、推敲されながらも語られつつ、数百年もかかって完成したと想像すると、つくづく歴史はロマンだと感じる。
おそらく最初期の「ホメロスたち」は素朴な軍記物の語り手にすぎなかったのだろう。しかし、時間を経るに従い様々な「ホメロス」が、独自に、あるいは、聞き手の要請に従ったり、その場の雰囲気にあうように工夫したりしながら、詩を発展させていったのだろう。口承ならば、わざわざ決定稿など仕上げる必要はない。文字は確かに便利なものだが、書いた途端に確定するので、物語を固定させるという原罪を犯す。ホメロスたちはギリシャ文字以前の、書くことを知らない、ただただ歌うだけの詩人だったのである。
『イリアス』が完成したとおぼしき紀元前八世紀から更にざっと二千年近くが経過すると、西欧人は十字軍を遠征させるようになる。ビザンチンは別として、アラブ・トルコのイスラム側やほかの東洋諸国はホメロスの叙事詩に深く傾倒することがなかった。ホメロスに夢中になったのはもっぱらギリシャ以西の人々であった。中世のアラブ人は、中世のヨーロッパ人が邪道と見なしていたアリストテレスやピュタゴラスといった古代の哲学者・科学者を熱心に翻訳して研究したが、ホメロスは眼中になかったようだ。もっとも西欧でもホメロス人気が本格的に復活するのはルネッサンス以降であるが・・・
十字軍が巡礼の道を切り開くと、エルサレムを巡るついでに「トロイア遺跡」を見物する観光客が出現するようになる。もちろん、その遺跡はのちにシュリーマンが発見するものとは異なり、大半はローマ人の遺跡にすぎないものであった。十八世紀になると、トルコ領小アジアに「プリアモスの宮殿」や「アキレウスの墓」なるものが見つかり、現地の案内人によって紹介されるようになる。現地のガイドたちが逞しい商売人であったことは、今となっては容易に想像できるが、当時は感心しながら見物した人もいたのだろう。疑念を抱いていたカイリュス伯爵は、「トロイア遺跡」訪問後、登場人物と同様に場所もホメロスの想像だろうと書き残している。
シュリーマンがプリアモスの財宝を発見して歴史の檜舞台に登場する一八七三年まで、「トロイア遺跡」は小アジアの地図のあちこちに現れては消え去り、現れては消え去りを繰り返していたのである。
関連
→トロイアを探せ
→ab ovo usque ad mala
→Achilles
→Ulysses pannot exuit
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