「山羊の歌」は古代ギリシャの酒の神ディオニュソスの信仰と関係がある。(See Dionysus) ディオニュソスは、山羊をはじめとして、様々な獣として顕現するが、その思想は動物を神と見なす原始宗教の名残であろう。アイヌ人も熊をはじめとして、主に食用となる動物や魚類を神と見なしていたから、原始宗教には共通の発想があるのかもしれない。田舎のディオニュソス祭やアンテステリア祭には行列があったが、「山羊の歌」はそこから発展したものなのかもしれない。行列で人々は山羊、あるいは、鹿などの皮を身に、仮面を顔につけ、祭のご馳走 --- 「ご馳走」といっても生のまま食していたようだが --- となる獣を神と見なし、自分たちを従者と見なしていたにちがいない。アンテステリア祭の進化した形式である大ディオニシアにおいて演劇となった「山羊の歌」の最初期の形態は、一人の主役と十二人の合唱団 (コロス) によって行われていた催し物であった。大ディオニシアで主役に従うコロスは半人半獣のサテュロス (Satyr) だったのだろう。サテュロスは、後世には概ね繁殖力のある山羊の姿で表現されているから、オリジナルも山羊の姿であったのだろう。唄、仮面、宗教色といったキーワードで「山羊の歌」は日本の能と繋がるものがある。
ディオニュソスは、誕生秘話自体が「山羊の歌 (ie 悲劇)」 であった。母親のセメレは、知りたいという欲求、自分が自分であることを全うしようとした運命によって、破滅した。(See Dionysus) 知識欲が人間に害をもたらすというのは、聖書と類型の発想である。
紀元前五世紀のアテナイの劇は、一週間あったお祭りの期間のうち、四日目から六日目までの三日間が公演日であり、一日につき、同一作者による四作ずつの劇を演じるならわしがあった。四作のうちはじめの三作は、「山羊の歌」で、とりを飾っていたのが、滑稽なサテュロス劇 (satyr play) である。「山羊の歌」には大団円の劇もあったようだが、(おそらく、時代が進むにしたがい、) 主人公の深刻な運命を描くようになっていった。一対十二の合唱形式を二対十二にし、役者二人の対話を中心に物語が進行する形態に仕立て上げたのは、アイスキュロス (Aeschylus, 525-456 BC) である。アイスキュロスはまた、三部作 (trilogy) 上演法を確立させてもいる。
「山羊の歌」を催す劇場は、当初、アッティカ (Attica) 地方のディオニュソスの神殿に隣接していたが、次第にアテネ人は植民地にも劇場を建設していった。古代の劇場関連用語は、姿を変えて現代英語になっている。「オーケストラ (orchestra)」は、そもそも悲劇の合唱団 (コロス) が歌ったり演じたりする舞台前の円形 (劇場によってはほぼ半円) の舞踏場オルケストラ (orkhestra) のことであった。「シアター (theater)」はギリシャ語ではテアトロン (theatron) であるが、オルケストラを扇状に囲む観客席のことを指していた。石でできている収容力一万四千人以上の観客席は、内側が低く、外側にいくほど高くなるという、現代のスポーツ競技場でも採用されている形に建造されていた。「シーン (scene)」は、演出の準備をする小屋 (楽屋) を指すスケネー (skene) からきた言葉である。
「コーラス (chorus)」は、オルケストラで踊ったり歌ったりする十二人の舞唱団コロス (khoros) に由来している。コロスは、精神的・思想的・宗教的背景を歌ったり、二派に分かれて、交互に対立する感情を歌ったり、団長が代表で舞台上の主人公と歌で対話を交わしたりすることもあった。
役者やコロスの面々は仮面を付けて劇を演じるのだが、時代が進むに従って役者の数は増えていった。演じるのは男だけで、一人の役者が仮面や衣裳を取り替えて、一つの劇で数役演じるのが普通だった。二人の役者を三人に、十二人のコロスを十五人に増やしたのはソポクレス (Sophocles, c496 - 406 BC) である。ソポクレスの例から考えるに、戯作者は脚本家であると同時に、演出家でもあった。
「人間の苦難において、著しいのは運命のあるがままの暴政である (Of all human ills, greatest is fortune's wayward tyranny.)」とソポクレスは『アイアス (Ajax)』に書いているが、詩人たちは、現実の鏡となる「山羊の歌」において、主人公に過酷な運命を背負わせている。
ソポクレス作の『オイディプス王 (Oedipus the King)』は、一本まるまる現存している。この物語は、舞台がテバイ (Thebes) の王宮、劇中の時間の経過が一日に限定されていて、ストーリー展開が緊張感を漲らせていることから、アリストテレスが悲劇の模範としたものである。幕が上がると --- とはいえ、古代の劇場に幕はなかったが --- つまり、劇がはじまると、まずテバイの悲惨な国状の説明がある。(英訳版は Project Gutenberg所蔵、 F. Storr の1912年版)
PRIEST:
A blight is on our harvest in the ear,
A blight upon the grazing flocks and herds,
A blight on wives in travail...
司祭
不吉な呪いが麦穂の収穫を襲い、
草を食 (は) む家畜の群を次々に襲い、
出産する女たちにも降りかかっています・・・
そこに、アポロン (Apollo) のお告げ携えて、デルポイ (Delphi) からクレオンが帰って来る。
CREON
Banishment, or the shedding blood for blood.
This stain of blood makes shipwreck of our state.
クレオン
流刑、若しくは、流血には流血を、とのこと。
この血の染みこそ我が国の災いなのでございます。
オイディプスが一つ一つ質問して、先王ライオス (Laius) が殺害されたこと、その下手人が未だに裁かれていないこと、捜査を妨げたのはスピンクス(Sphinx) が現れて、謎かけの呪いをかけたからだということが判明していく。スピンクスの謎かけを解いたのはほかでもないオイディプス自身である。オイディプスがライオス王亡き後のテバイの王になれたのは、スピンクス退治の功績によるものだった。スピンクスの謎かけ自体は劇中に登場しないが、当時の観劇者たちは誰でもそのなぞなぞと答えを知っていただろう。でなければ、同時上演のサテュロス劇で明らかにされいたにちがいない。ともかくソポクレスは、観劇者たちが知っているか、あるいは、知り得るエピソードを語らず想起させるだけに留めるという手法によって、メインプロットの緊張感を高めていく。オイディプスは先王を殺害した犯人を捕まえると決意する。
オイディプスがクレオンに頼んで呼び出した盲目の予言者テイレシアスが舞台上に現れても、王の要請には応じずに、「知っていることは口に出せない」という。なぜなら、秘密を明かすことは己の不幸となり、それが即、王の不幸となるからである。
TEIRESIAS
Thou blam'st my mood and seest not thine own
Wherewith thou art mated...
テイレシアス
陛下はわたしの意向を責め立てますが、
ご自身を追い詰めているご意向をご存じないのです。
この予言者の台詞は、デルポイの信託所に掲げられていた「汝自身を知れ (Gnothi Seauton, or Know Thyself) を想起させる。予言者の態度 (mood) に激怒したオイディプスは「お前こそ先王謀殺一味の仲間であろう」とまでいう。すると、予言者は王に真犯人が誰なのかを伝える。
TEIRESIAS
...Thou art the man,
Thou the accursed polluter of this land.
テイレシアス
・・・陛下こそその人物。
この国をけがしている呪われし者。
当然、王は予言者の言葉を受け入れないが、予言者は怯まない。
TEIRESIAS
Must I say more to aggravate thy rage?
テイレシアス
激怒を増しますこと、承知の上で
申し上げなければならないことが他にもございます。
OEDIPUS
Say all thou wilt; it will be but waste of breath.
オイディプス
思う存分申せばよかろう。
どうせ息の無駄遣いになるばかり。
TEIRESIAS
I say thou livest with thy nearest kin
In infamy, unwitting in thy shame.
テイレシアス
それでは申し上げますが、陛下は、破廉恥にも、
羞恥の呵責もなく、近親者とめおとになられておられます。
OEDIPUS
Think'st thou for aye unscathed to wag thy tongue?
オイディプス
好き放題ほざきおって、ただでは済まんぞ。
TEIRESIAS
Yea, if the might of truth can aught prevail.
テイレシアス
結構でしょう、真実の力に勝るものがあろうものなら。
OEDIPUS
With other men, but not with thee, for thou
In ear, wit, eye, in everything art blind.
オイディプス
お前など、お前以外の誰が見ても、
耳も、目も、知惠も働かない、完全な不具にすぎぬわ。
TEIRESIAS
Poor fool to utter gibes at me which all
Here present will cast back on thee ere long.
テイレシアス
なんと哀れな、わたしに対するあざけりは、
間もなく、ここに集うみなの口から
そのままご自身へと浴びせられることになるでしょう。
OEDIPUS
Offspring of endless Night, thou hast no power
O'er me or any man who sees the sun.
オイディプス
終わりなき夜の倅よ、お前の力など
余に対しても太陽を目にしている
他の者たちに対して、無力なのだ。
TEIRESIAS
No, for thy weird is not to fall by me.
I leave to Apollo what concerns the god.
テイレシアス
まこと力はありません。陛下の数奇な運命はわたしによって
もたらされるのではありません。アポロンの御心は
かの神にお任せしています。
OEDIPUS
Is this a plot of Creon, or thine own?
オイディプス
クレオンの企みだな。でなければ、お前自らの企みだ。
TEIRESIAS
Not Creon, thou thyself art thine own bane.
テイレシアス
クレオン様のお企みではなく、
陛下御自らが御自らの災いの源なのです。
このエピソードは様々な点で注目に値する。第一に、古代アテネ人にとっては真実が絶対的基準であったこと、第二に、真実が絶対的基準にもかかわらず、地上の出来事は天上界に支配されていること、そして、第三に、己を知ることが己の破滅に繋がるという否定的人生観があったことである。もし、己を傷つけられるのは己だけであるという因果応報論にも通じる自己否定観が、社会のメンタリティーとして定着していなかったら、この劇は評価されず、作者亡き後はすぐに散逸して、後世に遺らなかっただろう。そして、真実が絶対的基準でなかったら、古代ギリシャに科学に対する関心と興味は興らなかっただろう。また、ソポクレス亡き後の数世紀後に発生するストア学派の思想は、すでにこの頃からあったといってもいい。ストア学派は謙虚さを推奨したが、更に数世紀後のイエスはそれを踏襲し、「偉くありたい者は仕える身となりなさい」(マタイ二十章二十五節参照) と言った。己自身を知る者は謙虚である。オイディプスのストーリーが世界の遺産となったのは、物珍しい深遠さによるものではなく、人間精神を映す鏡だからだろう。
劇が進行していくと、オイディプスは、自分が実父とは知らずに実父を殺害し、実母とは知らずに実母と結婚したことを、自ら見出すことになる。ある一つの考え方によれば、オイディプスは、生まれたばかりの赤児であった自分を棄てた実の父親に憎悪をぶつけて自己弁護してもよさそうなものだが、そうはしない。この劇が感動を誘うのは、オイディプスが高潔だからである。"山羊の歌"の一途な主人公は高潔であったり、純粋であったりするがために破滅していく。
以上、三大"山羊の歌"作家のうち、ソポクレスの『オイディプス王』を見てみたが、そこに描かれているのは、人が「自分で自分の目玉をくり抜くことになる (自分で自分の首を絞めることになる)」不幸である。最初に誰が訳したかはわからないけれども、これを和訳語では「悲劇」と表現する。英語では十四世紀初出で、当初は古代ギリシャの「山羊の歌」のようなドラマを指していたが、十六世紀に入ると現実に発生した「惨事、災難 (a disaster)」の意味を生み出した。語義「現実の悲惨な出来事、不幸な状況」は、悲劇と現実の惨事が重なるアナロジーで成立した。一口に「悲劇」といっても、様々なレベルがあり、突発的に甚大な被害をもたらす天災、事故、犯罪といったものから、個人的な不運・不遇までを指す。
The amazing thing is that though we cannot stop the ravages of nature we have certainly been able to minimize the tragedy associated with these violent weather events.
自然の猛威を止めることはできないにせよ、天災が引き起こす惨事を確実に最小限におさえられるようになったことは、素晴らしいことである。
How much do you know about the 9-11 tragedy?
9-11の悲劇についてどれくらい知っていますか。
Every reader could relate a tragedy that occurred
directly because of the use of alcohol.
読者各位は飲酒が直接の原因となって起きた悲劇をご存知でしょう。
All women become like their mothers. That is their tragedy.
< Oscar Wilde >
女は必ず母親に似る。それが女の悲劇である。
This world is a comedy to those that think, a tragedy to those that feel.
< Horace Walpole, letter to Anne, Countess of Upper Ossory, August 16, 1776 >
この世は、考える者にとっては喜劇であり、感じる者にとっては悲劇なのです。
形容詞は tragic、「悲劇作者、悲劇俳優」は tragidian、「悲劇女優」は tragedienne、「悲喜劇」は tragicomedy という。「悲劇の研究 (the study of tragedy)」といった用法の tragedy は、個別の劇を指すのではなく、演劇の一分野 (a genre) としての「悲劇」を指す。
tragedy
[Middle English, borrowed from French, from Latin, borrowed from Greek tragoidia "goat song" (tragos "goat" & oide (See ode)). Why so called is uncertain. The "goat song" may have been originally a procession of the Dionysian ritual in the prehistorical times, which people pretended to be Satyrs, the attendants of Dionysus (an animal sacrifice, probably especially a goat,) wearing goat-skin garments and masks, drinking, singing and dancing. In the 5th c. BC, most of the "goat songs" in the Great Dionysia in Athens were the unhappy-ending plays, and the word was thus defined as so. The extended sense "really-happened. or really-happening, sorrowful event; unfortunate situation; disaster, " first recorded in the 16th c. in English, was formed by analogy.]