Tuesday, December 05, 2006

Dionysus

古代ギリシャの酒の神「ディオニュソス」は、外来の神格である。ディオニュソスは、作意を持たず、素朴で、直情的で、ありのままの豊饒な自然をそのまま表現するワイルドな神であるという点で、オリュンポス (Olympus) の神々とは異なっている。天なるゼウス (Zeus) の息子ではあるが、母親はカドモス(Cadmus) の娘、即ち、人間のセメレ (Semele) で、オリュンポスの十二神に数えられることはまれであった。だからといってマイナーな神かといえば、そうでもなく、ニーチェに限らず、アポロン (Apollo) と同等の重要な神だと考えている人も少なくないだろう。「ディオニュソス」は「二度生まれた者」を意味するらしいが、おそらく、それは以下の神話からのこじつけであろう。

ゼウスがテバイ (Thebes) の王女であるセメレに恋をして、高貴な人間の姿で夜這いしていると、やがてセメレは懐妊した。嫉妬に狂うゼウスの妻のヘラ (Hera) は、老婆の姿でセメレに会い、相手が本当にゼウスであるのかどうか確かめなければならないと吹き込んだ。疑心暗鬼となってセメレは、翌日の夜にゼウスが訪ねて来た折、何をお願いしても拒まず答えるという誓いを立てさせた上で、「本当のお姿をお見せくださいませ」と願い出た。それはゼウスを困惑させる要望であった。なぜなら、死すべき者 (人間) は、神の正体を目にした途端に、死ななければならないからである。ゼウスはその場をしのごうとするが、セメレは執拗にせまった。誓いを破るわけにもいかず、ゼウスは正体を明かし、天となって、稲妻を走らせた。稲妻はカドモスの王宮を直撃し、母体のセメレは即死し、胎児が流れ出た。胎児は月足らずだったが、父親がゼウスで神の血を引いていたから、死ぬことがなかった。ゼウスは我が子を救い上げ、自らの太股に縫い込んだ。この神話に従えば、ディオニュソスはまず、母親から生まれ、その後、父親の太股から生まれたことになり、要するに、「二度生まれた者」なのである。

プリュギア語 (Phrygian) の「天 (神) の子 (Diounsis)」からという説もある。この単語の dios 「天、神」はギリシャ語の「ゼウス」と同系であり、これに「子 (unso)」がついて成立している。ノンフィクションとして扱えば、ディオニュソスは、アナトリア半島 (現代ではトルコ) のプリュギア (Phrygia) か、その隣国のリュディア (Lydia) の出身である。(あるいは、もっと起源は古いのか?)

一説によると、ゼウスが嬰児ディオニュソスを託したのがニンフのニューサ (Nysa) であったことから、「ゼウス・ニューサ」が語源であるともいう。おそらく、語源については、比較言語学者よりもギリシャ神話学の研究者が熱心に探求しているが故に、上記のような様々な説が飛び出してくるのだろう。

ディオニュソスがやってきたとき、既存のディオニュソス風の原始的な宗教がとうの昔からギリシャにあったに違いない。人は類似する考え方には共感を持つが、対照的な考え方は受け入れないものである。従って、都市部におけるディオニュソス教の受け入れには抵抗が起きたが、農村部では受け入れられて、信仰されるようになった。この点でディオニュソスは田舎っぺの神様ということになるだろう。ディオニュソスの祭事は、幾つか知られているが、田舎のディオニュソス祭 (小ディオニュシア / Rural Dionysia) と都のディオニュソス祭 (大ディオニュシア / City or Great Dionysia) があり、後者は比較的新しいものと想定できる。

田舎のディオニュソス祭は葡萄の収穫を祝う秋の行事だった。葡萄を栽培してワインを造るアッティカ地方の村では、酒を酌み交わし、歌い、踊り、芝居や行列を見て楽しんでいた。行列のメインは、山羊か鹿かはっきりわからないが、獣の姿に仮装した人々がパロス (男根柱 / 英 phallus) を担ぐものであった。ディオニュソスは植物にせよ、動物にせよ、人間にせよ、一口で言えば、生命を生み出す根源的エネルギーの象徴なのだろう。

ディオニュソスのシンボルは、松ぼっくり (pinecone)、蔦 (ivy)、葡萄の蔓 (vine)、そして、葡萄酒 (wine) であり、様々な獣として顕現するが、主に山羊の姿が多かった。

エウリピデス (Euripides, 485?-406? BC) が書いた物語は、いうまでもなく、「山羊の歌 (ie 悲劇)」の一つで創作物にすぎないが、『バッコスの信女 (The Bacchae)』は、ディオニュソスとその信者の様子を再現する手助けになるだろう。

アジアで成功を収め (= 酒を普及させて)、取り巻きの女たちを引き連れてテバイに戻って来たディオニュソスが目にしたものは、信仰される自分ではなく、迫害される自分であった。セメレの三人の姉妹、ディオニュソスのおばたちや、統治者のカドモスの孫、ディオニュソスのいとこペンテオス (Pentheus) は、セメレの懐妊はゼウスによるものではなく、セメレの子ディオニュソスは神ではないといって、その信仰を禁止していた (もしかすると、現実に禁酒法を制定した統治者がいたのかもしれない)。そこでディオニュソスは、おばたちを狂乱させ、町の他の女たちと共に森に追い出した。女たちはある日、鹿皮で身を包み、蛇を帯にし、頭に蔦の冠をのせ、手に杖をもって、牧場にあらわれ、はじめはオルギー (狂乱の儀式 / 英 Orgy / ディオニュソスは夜昼かまわず、酒を飲み、歌い、踊り、女と交わる) で疲れ切って眠っていたが、牛の鳴き声に目覚め、杖で岩を叩いて清水を湧き出させ、地面を叩いて葡萄酒を湧き出させ、牡牛や仔牛に襲いかかって、素手で次々に引き裂き、肉を生のまま食べた。女たちはそのあと、子供たちをさらって山に戻っていった。

ペンテオスの母親アガウエー (Agave) をはじめとするあの女たちには神がついていて、逆らわない方がよい、と牧人はペンテオスに進言するが、ディオニュソスを頑として認めようとしない王は、信女たちを掃討しようと出兵を命じる。捕らえられて王宮にいたディオニュソスは、神に逆らうのはやめたらどうだというが、王はディオニュソスをただの人間だと思い込んでいるので鼻で笑って相手にしない。そこでディオニュソスは、女たちに気づかれないように女たちの様子を覗き見させてやる、という。この提案はペンテオスの好奇心を擽った。

ペンテウスが山中で狂乱の女たちを木陰から見ていると、もっとよく見たくはないかとディオニュソスが唆し、巨木にのせて、木を空高く突き上げた。そこでディオニュソスは姿を隠し、われを信じぬ者がいるぞ、こらしめてやれ、と女たちに知らせる。狂乱の女たちは、王に向かって石や杖を投げ。それから、木を根こそぎ引っこ抜いて王を地面に落とし、腕や脚を引きちぎって殺害する。先頭に立ったのは、王母のアガウエーである。狂乱のアガウエーは、自分たちが武具を使わずに素手で獅子を討ち取ったものと思いこみ、息子の生首を杖に刺して、凱旋する。忍耐辛い父親、老人となっていたカドモスだけが娘を正気に戻すことができた。カドモスがディオニュソスに、何故、母親が息子を殺すような惨いことをさせたのかと問えば、はじめから受け入れていれば、このようなことにはならなかったのだ、神は侮蔑されれば、黙視しないものだ、と答えた。神ともあろうものは、人間と異なり、寛大な心があるのでは、と問えば、これはゼウスの御意であり、運命なのだ、といって姿を消す。

エウリピデスがこのストーリーによって示したかったのは、理性よりも、本能の方が優ることもありうる、ということだったのかもしれない。酒は理性を削り、本能を剥き出しにさせる。たかが知れた人間の小賢しい知惠に依存してせこせこと生きるよりも、神からの贈り物である酒に身を委ね、気楽に幸福感を満喫する生き方も、人間にはあっていい。ディオニュソスは、世界のはじまりには黄金時代があったことを信仰者に思い出させる神である。この「山羊の歌」が公演されたのは、マケドニア (Macedonia) であって、アッティカ ----- もっと広く、ギリシャといってもいいが ----- ではない。理性や知識、文明の枠組みを胡散臭いものと見ていたエウリピデスは、アテナイ (Athens) では眉唾ものと見られていたらしく、居心地の悪さを感じて、マケドニアに移り住んでいたのである。

「山羊の歌」は都のディオニュソス祭の催し物であった。都の、即ち、アテナイのディオニュソス祭は、紀元前六世紀の僭主ペイシストラトス (Pisistratus) の治世にはじまったと考えられている。春分の頃に行われたこの祭の四日目から六日目までは主に「山羊の歌」と称される三部作 (ときには、四部作) の「悲劇」と、サテュロス劇 (satyr play) の公演があった。この祭は全ギリシャから観光客を集めるほど盛大なものであったが、奴隷にも暇が出され、自由が与えられていた。ペイシストラトスに何らかの政治的な意図があったことは確かだが、はっきりとはわからない。

大ディオニュシア以前に、その起源となったと思われる立春の頃のお祭りにアンテステリア祭 (Anthesteria) と呼ばれるものがあったが、そのお祭りでは、初日に樽開けがあり、二日目には、行列や早飲み競争などを行っていた。仮装パレードは海から戻ってくる神々を表現していたが、牡牛の姿のディオニュソスはこのパレードの中で結婚する。三日目は、死者の魂や黄泉の国の悪しき存在が地上に戻って来る日であった (季節の変わりに目に起こるこの現象は日本のお彼岸やケルト由来のハロウィンとどこかで繋がるのかもしれない)。ここで注目されるのは、生命の誕生 (ディオニュソスの職域) と死の関連性を見る古代ギリシャ人の発想である。紀元前五世紀のギリシャ人自身、ヘラクレイトス (Heraclitus) も、ディオニュソスとハデス (Hades) は同一である、といった主旨のことをといっているし、パロス崇拝はヘルメス (Hermes) でも見られるのだが、ヘルメスもまた、魂の運び屋として死と関連づけられていた。

英語の形容詞には、Dionysian「ディオニュソスの、ディオニュソスを信仰している (of, related to, or devoted to the worship of Dionysus)」 と Dionysiac 「ディオニュソス的な、熱狂的な、乱痴気騒ぎをする、酒池肉林の (frenzied or orgiastic)」がある。ただし、Dionysian と Dionysiac の区別は、必ずしも上記のようになるとはかぎらず、共に「ディオニュソス教の」と訳すこともできる。
The Dionysiac reveller sees himself as a satyr,
ディオニュソスのように飲んで浮かれている者は自分をサテュロスと見なす。

Athenian Old Comedy was in some way related to the Dionysiac cults.
アテナイの古い喜劇はディオニュソス教の祭儀とどこかで繋がっていた。

The climax of the Dionysian rite in Euripides' Bacchae is the sparogmos and the omophagia, tearing wild animals to pieces and comsuming their raw flesh, still warm with blood.
エウリピデスの『バッコスの信女』にあるディオニュソス教の儀式のクライマックスは、スパログモスとオモパギア、即ち、野生の動物を八つ裂きにして、血のぬくもりがさめぬうちにその生肉を食すというものである。

As you know, the Greek drama was originally the satyr or goat plays of the Dionysian cult.
知ってのとおり、ギリシャ劇はもともとディオニュソス教の祭儀であるサテュロス、つまり、山羊の劇でした。
異名はバッコス (Bacchus) という。

Dionysus
[Latin from Greek Διονυσος ( Dionysos. ) Origin uncertain.]

See also tragedy

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